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◆竹内式部の史跡


竹内式部の史跡
東京府養正館_壁画「 竹 内 式 部 先 生 」講 書 之 図 ( 国立国会図書館 所蔵 )

◆「竹内式部」の石碑・墓所


入舟地蔵尊内 追想一掬会発行

贈正四位 竹内式部先生「追想記念葉書」より

 

竹内式部の史跡
「竹内式部碑」新潟市白山公園内 (大正五年新潟市民の寄付により竣工)
竹内式部の史跡
白山公園内「竹内式部碑」高札
竹内式部の史跡
「竹内式部先生」 納骨墓所 (昭和八年新潟市民の寄付により建墓)
竹内式部の史跡
「竹内式部先生」納骨墓所 高札

竹内式部の史跡
入船地蔵尊境内 「竹内式部の碑」


竹内式部の史跡
竹内式部の碑

竹内式部の史跡
竹内式部出生地標石

    追想一掬会(入船地蔵尊)建之の出生地標石及び霊牌



竹内式部の史跡
新潟市役所 (市教育會) 藏版「竹内式部先生」小傳
竹内式部の史跡
「 竹 内 式 部 先 生 」事 蹟 抄 及び 傳 略
竹内式部の史跡
「竹内式部先生」小傳より
竹内式部の史跡
「竹内式部先生」傳略より


竹内式部の史跡
「 竹 内 式 部 」 の 史 跡

◆贈正四位 勤皇家「竹内式部先生」事蹟抄

   出 生= 正徳二年、越後 新潟本六之町東側六軒小路二軒目に生まる。

  ▲幼 名= 幼名一學(又一角)、敬持、齋と號す。

        正庵は竹内家代々の通稱なり、敬持は、京都の徳大寺家に仕えて、後ち、竹内式部と称す。

  ▲家 業= 父祖代々醫を業とし、父宗詮と為す。

  ▲出 郷= 亨保十三~四年、十七~八歳の頃、出郷京師に上る。

  ▲學 統= 初め松岡仲良に就て學び、後ち 祖師玉木葦齋に山崎闇齋派の儒學神道を修む。宝歴の初年 京都に帷を下し

               授學、公卿堂上の人々を初め、其門弟全國に於て、七~ハ百名に達したりと云う。                                       数年後には、桃園天皇への直接進講が実現する。

  ▲糺 問= 京都所司代に於ける糺問は、第一次に宝歴六年二月、第二次は宝歴八年六月廿八日から翌九年五月六日まで

               京都町奉行所に留置糾問され、同日、越後以下十ケ國お構へ追放の判決を受く。(宝歴事件)  

               先生、年四十八歳。

  ▲神都居住=追放後、妻子を伴い(息主計十五歳、息女すま) 伊勢松坂を経て、宇治山田に赴く。(神都=伊勢神宮)

        同學 谷川士清(淡齋)及び其の紹介により、蓬莱尚賢と交る。

        蓬莱氏の盡力により、蓬莱家出入の師職 秤屋専助、御職 鵜飼又太夫方に寄寓。

        又、寺田氏へ娘すま女を嫁せしむ。現存の林崎文庫に講座を設け、教授す。 

  ▲甲府行=山縣大貳,藤井右門の同志と交り、宝歴十二年三月十六日より四月十五日迄 大貳の招請に應じ、甲府に赴き

       蔭陽師と自稱し、滞在せる文献 今尚ほ同地 舊家坂田家に保存さる。

  ▲捕 縛=明和四年江戸に於て、山縣大貳,藤井右門の所謂 明和事件 起るや同年三月 江戸町奉行依田豊前守配下の者

              八名宇治山田に來り、先生を縛す。 當時寺田方に在りしも、類を娘の婿家先に及ぼすを避け、鵜飼又太夫方

              居候と申立て舊記の文献其の儘 傳わる。(明和事件)

  ▲終 焉=明和事件に關係なき判決を受くるも、故意に京都立入りの事實を以て 八丈島遠島の申渡を受け、明和四年

       十月、江戸 霊岸島より流人船にて船繼の三宅島に送らる。(三宅島流人罪名帳 断簡) 

       同年十一月二十日三宅島 伊賀谷村大船渡海岸に着、船中既 に溫病を患い、明和四年十二月五日歿す。

       享年五十六歳

   ❁贈正四位=幕末維新功労(尊皇論)により、明治大帝から竹内式部先生に対し、

                                   明治二十四年十二月十七日「贈正四位」が叙位せらる。

      ※【参考】明治維新功労「贈正四位」明治二十四年四月八日 叙位者

             ❁吉田松陰 ❁久坂玄瑞 ❁高杉晋作 ❁坂本龍馬 ❁中岡晋太郎 ❁平野國臣

    ▲建 議=昭和十二年三月二十九日、衆議院議長より内閣総理大臣あて「竹内式部・山縣大貳」を尋常小學校教科書へ

       の復活に関する建議書を送付せる。

 

  ▲遺 跡=「竹内式部先生」に關する遺跡

    △京都の居所=京都小川立賣上ル町(明和風土記による) 

    △熟    舎=京都市麩屋町丸太町下ル町(川勝忍氏住)

    △贈 位 塔=京都市寺町 十念寺所在

                      (明治二十四年十二月十七日「贈正四位竹内式部」贈位記念の爲、徳大寺家が贈位塔を建立) 

    △林崎文庫=宇治山田市神宮宇治橋前方所在 先生講義當時の建物現存

    △墓   所=東京府三宅島伊ケ谷村 大林寺境内所在「竹内式部の墓」(大正十一年 三宅島青年會建立)

             注) 新潟市長の弔問 ~三宅島の英霊を弔慰せらるゝを以て、追想一掬が発起となり、昭和五年七月

                            新潟市長村淑人氏を始めとした三宅島弔問観光團二十五名が三宅島に渡り、竹内先生の墓所に

                            参拝して懇ろな祭典を営まれ、竹内先生の霊を慰められたのである。

      △墓   所=新潟市四ツ屋町 市有墓地 「贈正四位 竹内式部先生之墓」

                     注) 昭和七年九月十七日「竹内式部先生」病歿の霊地 三宅島墓所より分骨、

                             昭和八年八月 新潟市建之(新潟市長従六位勲五等中村淑人謹書)、昭和九月十七日納骨式挙行

               新潟市民の待ちに待った竹内先生の御分骨は、行列も美しく先ず新潟市役所に安置され、更に

                             御分骨を納める墓の爲に新津恒吉氏の壱阡圓を初め、たちまちのうちに市民から多額の建墓費が

                             寄附された。新潟市會では、これ等の寄付金と併せて總額 貳阡三百餘圓の寄付金を昭和八年五月

                             二十九日の市會に満場一致の決議をして建墓に着手したのである。】

      △石   碑=新潟市白山公園内 竹内式部先生 頌德碑

              明治三十五年 本市有力者により 初めて先生顕彰の碑を建設せんとする議起りたるも、偶々 日露

           の役 起るに及び一時中止し、同三十九年八月再び發議され、爾来、関係者の努力により、七ケ年の

           歳月を費し、白山社頭に建碑せる。大正二年八月當初の予算を更生し、總工費五千六百貳圓を以て

           竣工二年十月八 之を新潟市へ移管引継ぎを完了し、大正五年九月十八日、恰も竹内先生の

           没後百五十年祭と併せて、除幕式を挙行せり。

            同碑の篆額は徳大寺實則公、碑文の撰文は星野恒文學博士、書は日下部鳴鶴氏なり。

          ※同石碑の高札(新潟學園長 故故佐藤貞三郎氏の撰文)は、新潟市中央青年會の建立  

                      大正十年十二月五日より同日を以て祭日と定め、新潟青年會により白山公園の碑前で「偉人祭」と称して

                       祭典行いたり。

    △石   碑=新潟市本町通十四番町「入舟地蔵尊」内所在【 維新柱石 贈正四位 竹内式部君之碑 】

                        岐阜人俳優 「今枝恒吉氏」建碑  明治三十五年四月二十五日建立 *同年四月二十九日除幕式

             竹内式部の碑では、大正十三年四月「竹内式部先生追想一掬會」の設立により、同碑前に於て毎年四月

            二十九日(除幕式の日)に追想祭を執行する。【 市長以下各団体・小学校兒童が参列す。】

                       同石碑の高札(新潟學園長 佐藤貞三郎氏 撥之)は、追想一掬會の建立なり。

      △出生屋敷跡=昭和二年八月 新潟市本町通九番町(古山刃物店住)屋敷跡路面に標石を建立

             「勤皇家贈四位 内式部先生 出生地昭和二年九月十日追想一掬建之

    △   社昭和十五年、皇紀二千六百年記念事業として、新潟市竹内神社建立概案により神社創建を決議

           し、同年三月十九日の市會に於いて、市制第八十三條により神社建立調査委員を新潟市長より推薦

           せり。

           竹内神社建立概案  新潟市内三千坪乃至五千坪の敷地(境内及び外苑敷地共)に建立

            .敷 地…境内敷地及び外苑敷地共、三千坪乃至五千坪 

             Ⅱ.建 物…神殿、幣殿、拝殿回向殿、神錢所、神楽殿、社務所、渡り廊下、端垣玉垣   

                        『昭和十六年十二月、太平洋戦争の勃発』

    △銅    像=新潟市二葉町 二葉國民小學校脇に竹内式部の銅像を建立(昭和十七年 武石弘三郎氏作)

    △菩 提 寺竹内家祖先の墓所在 新潟市西堀通六番町 本覺寺〔祠堂→追想一掬會安置の霊牌〕  

       その他の書画①五十嵐俊明筆 竹内式部疎 大黒天図  ②竹内式部書 一行 白圭之かけたるは云々

                            ③竹内式部書「松」一字 五言対句     ④竹内式部書 三宅島流人罪名帳 断簡

 

                     ★大正十三年創立「竹内式部先生」追想一掬會 事跡調査より

                           ※【本會之事業】祭祈法典,思想普及,遺跡保存,事績顕彰,事跡調査

                                                                    (新潟市本町通十四番町 入舟地蔵尊内)   


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竹内式部の史跡
入 船 地 蔵 尊 「 竹 内 式 部 君 之 碑 」

◆明治維新と「竹内式部先生」の教化

竹内式部の史跡
「 竹 内 式 部 先 生 銅 像 」新 潟 市 西 海 岸 公 園 内 ( 昭 和 十 七 年 建 立 )


○徳川幕府の時代に尊王の大義名分を唱え、学問の上から初めて勤皇運動を起こしたのが、竹内式部先生である。

 この竹内式部先生と交わる者に藤井右門あり、山縣大貳あり、之れに続く者に高山彦九郎あり、其の後、四方に簇出する志士俊秀の血管の中に先生の気魄は次々に生き返り、遠くは維新の首脳岩倉を始めとし、西郷、木戸、大久保等の諸士、いづれも地下の先生の冥助幽導によって、よく囘天の難行を成し遂げ、人皇神武以来の天威を顕揚し得たのである。

  徳川倒幕の聲が全国に起こった時、錦の御旗の下にその官軍の大将として戦争に出た偉い公卿堂上の方々は、その祖父、又は曽祖父が皆、先生の師弟として先生の大義名分を教え込まれた人々であった。

  先生の門弟の公卿堂上の方々がその子に伝え、その子よりそのまた子に伝えられて、明治維新の大業を成遂げたので、先生の魂は百年後に再び生まれて来たのであった。

 しかし、明治の維新はもとより、明治大帝の皇威がなくては出来得ないことであったにも拘わらず、長くも先生の功績をお褒めになり、明治二十四年十二月十七日「正四位」を贈られたのである。

  名も無き臣下の先生に位を賜るなどは、畏れ多いことではあるが、これも先生が一生を大君に棒げたことを嘉せられ給いし大帝の御仁義によるものであると拝察し奉るのである。

●竹内式部の思想
 竹内式部は、山崎闇斎の垂下神道の学説を奉じ、神道と朱子学を集合し、天皇への忠誠を中心とする道徳
律を根本思想とする。

 すなわち、【陰陽五行の理を経とし居敬窮理の説を緯とし、その節の権威を日本書紀神代巻に求め、皇室守護を本旨とする。】 居敬窮理とは朱子学の説である。居敬は「常に一を主として他にゆくことなく、敬(つつしみ)を以って徳性を涵養すること。

  窮理とは物事の法則をきわめつくすこと。
 垂下(山崎)神道では、「理気一体の大極にして、天地開闢神であるクニノトコタチノカミが、人体神で
ある天皇と唯一無二であるとする天神唯一の理を唱える。

 竹内式部は、山崎闇斎(号を垂下)の学説を、桃園天皇の下で不遇であった公家たちに講義した。

  政務に関わることの出来なかった不平分子の公家は、天皇にもこれを進講した。
この動きを不穏と見た摂関家が幕府に訴え、公家八人と竹内式部が幕府に処分された。

  これが、次に掲げる宝暦事件である。 

◯宝暦事件
    1758(宝暦8)年、国学者・神道家・尊王論者である竹内式部が逮捕された。

  尊王思想を説き、幕府に忌避され、その後、明和事件にも連座し、八条島に流される途中に三宅島で没す。
   この尊王思想は、山崎闇斎の垂下神道の流れを汲み、幕末の尊皇攘夷思想へと繋がることとなる。


◆桃園天皇と「竹内式部先生」の進講

 桜町天皇から桃園天皇の時代(元文・亨保年間)、江戸幕府から朝廷運営の一切を任されていた摂関家は、衰退の危機にあった。一条家以外の各家で若年の当主が相次ぎ、満足な運営が出来ない状況に陥ったからである。

 これに対して政務に関与できない他家、特に若い公家達の間での不満が、高まりつつあった。

 その頃、徳大寺家の家臣で山崎闇斎の学説を奉じる竹内式部 (竹内敬持)が、大義名分の立場から桃園天皇の近習である

徳大寺公城をはじめ、久我敏通・正親町三条公積・鳥丸光胤・坊城俊逸・今出川公言・中院通雅・西洞院時名・高野隆古ら

神書・儒書を講じた。

幕府の専制と摂関家による朝廷支配に憤慨していたこれらの公卿たちは、侍講から桃園天皇へ竹内式部の学説を進講させた。

 やがて、1756(宝暦6年)には、竹内式部による桃園天皇への直接進講が、実現する。

 公家の中には、諸藩の藩士の有志を糾合し、徳川家重から将軍職を取り上げて日光へ追放する倒幕計画を構想する者まで

現れた。

 これに対して、朝幕関係の悪化を憂慮した時の関白 一条道香は、近衛内前・鷹司輔平・九条尚実と図って、天皇近習七名(徳大寺・正親町三条・烏丸・坊城・中院・西洞院・高野)の追放を断行、ついで、一条は、公卿の武芸稽古を理由に1758年(宝暦8)、竹内式部を京都所司代に告訴し、徳大寺など関係した公卿を罷免・永蟄居・謹慎に処した。

 一方、竹内式部は、京都所司代の審理を受け、翌1759年(宝暦9年)重追放に処せられた。

 この事件で幼少の頃からの側近を失った桃園天皇は、一条ら摂関家の振舞いに反発を抱き、天皇と摂関家の対立が激化することとなる。

 この混乱が収拾されるのは、桃園天皇が22歳の若さで急死する1762(宝暦12年)以後の事である。


◆地域の宝 新潟市民文化資源「竹内式部の墓・碑・像」へのご案内


◆三宅島の文化財「竹内式部の墓」へのリンク(画像)

竹内式部の史跡
竹内式部 三宅島の墓

※三宅島の文化財「竹内式部の墓」への   リンク

 ●竹内式部という名前は通称で、本名は竹内敬持(たけのうち

   けいじ)という江戸時代中期の国学者(尊王思想家)だそうだ。

☞八丈島へ流罪になって送られる船中で発病し、三宅島のここ

   伊ヶ谷で病没したという。

☞墓石は、「竹内式部先生之墓」と彫られており、流人の墓と

   してはずいぶん立派なものだ。と思ったら、最初は小さな石

   地蔵が墓印としてあり、そこが海水で崩壊したので新たに碑

   が造られたものだという。

☞また、最初は(大正11年,三宅島青年会建立) 三宅島伊ヶ谷の

   大林寺境内墓地にあったが、墓碑再建のとき(昭和53年除幕)

   位置が変えられたという。

☞今のこの墓の向かって右には解説板が、向かって左には竹内

   式部の銅像が設置されている。 


◆京都市「竹内式部寓居址」へのご案内


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    【 宗祖】 円光,東漸,慧成,弘覚,慈教,

       明照,和順,法爾大師 『法然上人』

        千体仏を迎える入船地蔵尊

         (佐渡渡来より三百年)

             全国から寄進の千体地蔵 (円内)




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                        FAX   025(222)5665

 


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